経済学における歴史の位置づけ
2019.01.12
・前回のブログ(「歴史の進歩と個人の役割」)を書いたら、ある人から、「では経済学では歴史をどう扱っているのか」という質問を受けた。この点に触れておきたい。
・現代の経済学(モダーン・マクロを念頭に置いている)では、”歴史という概念はない”、もう少し詳しく言えば、そこでは、過去も未来もなく現在があるだけだ。それは一般均衡という概念がその基盤になっているからだ。
・フランク・ナイトは20世紀初頭のアメリカの経済学者だが、その著書において、将来に関する不確実性を3つに区分した(Knight,p115)。
①アプリオリな確率(a priori probabirity)
②統計的な確率(statistical probabirity)
③エスティメーツ(estimates)
このうち上の2つまでは、現代経済学の分析の範囲に入る。なぜなら確率論を使えば(たとえば平均や分散といった概念)、確率事象を非確率的な議論に組み込むことが可能だからだ。しかし3番目のエスティメーツは、そうではない。なぜならそこでの対象は統計的な関数に乗らない本来的な不確実性だからだ。たとえば徳川幕府の将来をいくらモデル化しても明治維新とそれによる体制転換とその後の展開を求めることはできないだろう。
・経済学は①と②までは許容するが、③については無視を決め込む。それはサミュエルソン(1915-2009、ノーベル賞受賞)がすで指摘していることだ。こうした大胆な単純化を行ったことで経済学は精密科学たり得たともいえる。
・ナイトに戻るが、ケインズは”確率論”を書くぐらいだから、ナイトの提起した問題に気づいていた。したがって彼の一般理論の骨子は、民間投資には本来的な不確実性があり、それが非自発的失業の原因となるということだった。それ故、失業を防ぐための政府支出の必要性を説いたわけだ。
・しかしこの不確実性(ナイトの③)を考慮したのでは、マクロモデルが体系として閉じなくなってしまう。そこでヒックス/ハンセン等が投資関数を内生化し、連立体系としてのマクロモデルが成立することになる。
・しかしそれでも、マクロ現象はミクロ現象とは別な集計概念であることが当初は意識された(カルドア、カレツキなど)。それが崩れたのは、1970年代以降のいわゆるマイクロ・ファウンデーション(ミクロ理論に基づくマクロ経済学)の勃興によるものだった。これによって、マクロ経済学は、”健全な”ミクロ基盤をその理論の根底に持つことになる。
・マイクロ・ファウンデーションによって完全に失われたのが、”歴史概念”だ。そこでは、完全予見が前提となる。つまり将来に関してナイトの言う本来的な不確実性は存在しないことになる。そうでないと経時的な最適性(将来の消費などを既知として最適化を図る)の存在そのものがあり得なくなるからだ。
・こうして現代経済学は精密理論として完成したが、他方で現実世界からは遠い存在となった。その矛盾が現れたのが2008年の金融危機だ。当然のことながら、これを契機として新たな経済学が生まれつつある(最適性や代表個人を前提としない、エージェント・マクロなど)。
・経済学における歴史概念はポール・デービッドなど少数の人々によって生き延びてきた。とくに最近のロバート・ゴードンの著作(Rise and Fall of American Economy,邦訳あり)によって新たな息吹を迎えつつあるように見える。
・経済学においてなぜ一般均衡がこうした宗教的な”聖典”となったかは、まさにポール・デービッドの言うClio and the Economics of QWERTYの問題(単なる偶然が左右する)だが、これについては別項で触れたい。
(参考)
・Knight F.,Risk Uncertainty and Profit,Signalman Publishing,2009(オリジナルは1921刊)。
・和田重司、”フランク・ナイトの不確実性の経済学”、中央大学経済研究所年報、第46号(2015),pp87-106
・Samuelson P.,"Classical and Neo-classical Monetary Theory",in Clower ed.Readings Monetary Theory,Penguin,1969
・Kaldor N.,Economics without Equiriburium,M.E.Sharpe,1985