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コロナショックとハルデーン提言

コロナショックとハルデーン提言

 2020.05.02

・コロナショックが始まって数ヶ月、それを乗り切った後の社会システム復興に関する議論が出始めている。

 

・注目すべきは、アンディー・ハルディーンの”ソーシアル・キャピタル重視論”だ。ソーシアルキャピタルとは”人々が持つ信頼関係や人間関係”のことだ(ウィキペディアによる)。これを扱ったパトナムの「哲学する民主主義」(Making Democracy Work)を思い出す人も多いだろう。

 

・まずハルディーンの説明から始めよう。彼はバンク・オブ・イングランド(英国の日銀)のチーフ・エコノミストで金融の統計的分析が専門だ。彼を一躍有名人にしたのは、金融危機以後に開かれたジャクソンホール・シンポジウムで発表した「犬とフリスビー」という論文だ。ここで彼は、統計的確率(risk)と本来の不確実性(uncertainty,フランク・ナイトによる)は分けて考えるべきであり、前者を前提とした複雑な数学モデルでは、本来の不確実性に基づく経済的危機(例:2008年の金融危機)を分析できないことを、各種のシミュレーションに基づいて説得的に示した。

 

・ではどうやれば良いかというと、それがこの論文のタイトルである「犬とフリスビー」に関係する。犬は飼い主がフリスビーを投げると取りに走る。その場合、自分とフリスビーとの関係を複雑な物理モデルで計算するのではなく、フリスビーに対する仰角を一定にするように走ることで、うまくフリスビーを捕まえる。これは心理学者のギゲレンツァー(Gigerenzer)が最初に見いだした。ギゲレンツァーは、複雑な事象を論理的に複雑な仕組みで解くのではなく、大胆な経験則で解くやり方をヒューリスティックと名付けた。仮に、コンピュータを使って大量データと複雑な数式を解くことで得られるのが最適解とすれば、ヒューリスティックで解かれる解はサブオプティマル(準最適)となる。しかし最適解を解くのに必要な情報が得られない場合は、サブオプティマルな解が、不完全情報に基づく最適モデルの解を上回る、というのがハルディーンの指摘だ。

 

・たとえば今流行の量子コンピュータに使われる焼きなまし法(simulated annealing)も準最適化手法の一つだ。

 

・e予測の設計方針もまさにここにある。長年経済予測作業に携わってきて、複雑な経済モデルが良い予測(将来探査)を必要なときに出さないことを身にしみて感じてきた。誰もが使えて必要な将来像をすぐに描ことができるシステムを目指すのがe予測である。

 

・さて本題に戻ろう。今回ハルディーンが提起したのは、コロナショックからの回復過程で重要な役割を果たすのが"資本"であるということだ。ただしこの場合の資本とは、いわゆる金融資本や生産資本ではなく、社会資本(ソーシアル・キャピタル)を指す。エコノミストが、分析の目を経済変数ではなく社会変数に向けたところに、彼の非凡さをみることができる。

 

・現在コロナショックに対するエコノミストの関心は、雇用や生産など経済資本の毀損に向けられている。しかしハルディーンが注目するのは、むしろソーシアル・キャピタルだ(社会の連帯)。仮にコロナショックが終焉したとき、経済や社会が復興するのにもっとも大事なのはソーシアル・キャピタルだ。ちょっと例は異なるかもしれないが、第二次世界大戦後日本が急速に復興したのは、象徴としての昭和天皇の存在が大きかったようだ。しかし今それに取って代わる存在はない。

 

・今回のコロナショックの場合、復興に必要なソーシアル・キャピタルは存在するだろうか。保守政権がここ数年にわたって壊してきたのは、人々のあいだの素朴な信頼関係のように思える。現時点でのコロナショックへの対応も、あまり良いとは言えないが、問題は復興過程で、ソーシアル・キャピタルの不在が諸外国との差を広げることになるのではないか。

 

・もう一点付け加えれば、IT革新は、従来とは異なる形で、ソーシアル・キャピタルを構築する。それはオープンソフトの形を取ったり、gメールのような”フリー”の形をとったりする。この面でも、残念ながら日本に先進性はない。

 

(参考)

・Andrew Haldane,"Reweaving the social fabric after the crisis",FT,Apr.26,2020

・Andrew Haldane,"The dog and the frisbee",Speech at the FRB Kansas City's 366th economic policy symposium,Aug.2012

・Clive Cookson,"R number: the figure that will determine when lockdown lifts",May 1,2020

・中路啓太、「ゴー・ホーム・クイックリー」、文藝春秋、2018