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胡蝶の夢

胡蝶の夢

 2022.01.09

・昨年末に司馬遼太郎の「胡蝶の夢」を読んだ。これは、幕末にオランダの医者ポンぺから西洋医学をまなんだ松本良純以下、蘭学医師の物語である。

 

・ちなみにこの本のタイトルは、中国の思想家、荘子の斉物論からとっている。荘子を訳した岸氏の言葉を借りれば、その含意は「この世に確かなものなど何一つありはしないのだ。だがだからこそ人は胡蝶となって、心ゆくまで空に遊ぶことができる。いや大鵬となって九万里の空に羽ばたくことができる」(岸、p20)。

 

・まさに”胡蝶の夢”は2022年の幕開けにふさわしい言葉だと思う。

 

・といったことを考えながら、正月の新聞を眺めていたら、作家五木寛之氏の言葉が目を引いた。それは「寝そべり族」に関してのことだ。「寝そべり族」とは中国で2021年6月ジャン・シンミンという36歳の男性が発した動画のことで、「寝そべっているのはいいことだ、寝そべっているのは素晴らしい、寝そべるのは正しい、寝そべっていれば倒れることもない」というギターの爪弾きだ(橘玲氏による)。

 

・これを見てハッとしたのだが、この爪弾きは高度成長下にある中国の若者としては、当然の発想だ。社会の流れが急速に変化するとき、「ちょっと休みたいな」と思うのは自然だろう。翻って変化に乏しい日本ではこうした発想すら若者に生まれてこない。これがこの国の沈滞状況をよく表している。

 

・そこで最初の「胡蝶の夢」に戻るのだが、幕末と現代はよく似ている。現代日本は、高級役人・政治家・大企業の支配下にあって、国民はその従属物になっている。いわゆる有識者は幕末の儒学者や中世の教会と同じで、こうした人々の支配正統性を、日々、人々に説いている。

 

・日本では、若者を含め国民はこうした支配にある意味で満足しており、特に選挙などで不満が湧き出ることもない。なぜかというと、こうした支配層は、現代においては有名私立中学・高校を出て東大などに入り、そこでも”優秀な”成績を収めて、役人や大企業社員になっているからだ。その中から若手政治家などが生まれ、彼らが支配層を形作っている。いわゆる「親ガチャ」の仕組みになっている。勉強ができて試験に受かったのだから、何が悪いという発想だ。ある役人上がりの政治家が人に会うたびに、「あんたは東大模試で何番だった」と聞いてひんしゅくをかったそうだが、これはまさにこうした序列の確認を行っている行為だ。

 

・国民の皆が満足していれば、それはそれで結構なことだ。しかし問題は幕末と同じく、今の指導層は、IT音痴で、IT革新という外圧に振り回され、なすすべも無く立ちすくんでいる。まさに幕末の幕府と同じだ。それは今の日本の教育システムが世界標準でないことにも原因がある。蘭学を学ぶべき時に朱子学を必死になって勉強しているようなものだ。

 

・ではどうすればよいか。ちょっと発想が飛ぶが、県ごとに独立国家を作ったらどうか。外交権も通貨発行権も県が持てばよい。ただし人の往来は各県間で自由とする。そうすれば住みよくて、自分の能力の発揮できる県に移住が始まるだろう。県によっては直接民主制をとったり、外国からの難民を自由に受け入れたり、また自然エネルギーに頼る温暖化対策をとることも可能だ。では防衛はどうすればよいか。IT時代の防衛策は、実は規模の経済性がない。したがって県単位の防衛はそれほど夢物語ではない。これに関しては別稿で触れることにする。

 

・実は県独立論は、筆者のものではない。作家坂東眞砂子氏の「やっちゃれ、やっちゃれ!」は高知が独立する話だ。国連安保理事国のうちいくつかが認めてくれれば、県の独立は法的にも可能なようだ。日本の今の支配体制も、そろそろ賞味期限が切れた。そろそろ変えないと、その存在は世界の中でかすんでいく。

 

(参考)

・司馬遼太郎、「胡蝶の夢」全4巻、新潮文庫、1983

・岸陽子訳、「荘子」、徳間文庫、2008

・五木寛之、”三密から「三散」の時代へ”、日経新聞、2022年1月1日

・同、「旅の終わりに」、講談社文庫、1990

・坂東眞砂子、「やっちゃれ、やっちゃれ!」文芸春秋、2010

・橘玲、”なぜ「ミニマリズム」が巨大なブームを巻き起こしたのか?その根本的な理由”、2021.12.19