さよならテレビ
2022.01.22
・テレビを見なくなってから久しい。今はアマゾン・ファイアに頼りっきりだ。昨年の暮れ、久しぶりにテレビを見ようとしたが、コマーシャルが長すぎて、結局アマゾンに戻ってしまった。
・これは筆者だけの経験ではない。知り合いのひとりは、ネットフリックスにはまっており、テレビを見なくなっている。別な知り合いは、ユーチューブがケーブルテレビ経由で見られるので、もっぱらそれ専門だ。この方が、自分の好きなテーマを追えるからだという。
・そんなときに、東海テレビのディレクターだった阿武野勝彦氏の、「さよならテレビ」を読んだ。彼はドキュメンタリーを専門とし、数々の作品を手掛けてきた。
・そういえば、前に「やくざと憲法」という彼の作品をみたことがある。そのなかで、やくざが「われわれには憲法で保障される基本的人権がないのですかね」(筆者の聞き覚え)と言った言葉が耳に残っている。
・阿武野氏は、この点を「ヤクザだって国民ではないか。足を洗って別の生き方をすることもあり得る。生き方を変えることを許さない状況を作ることこそ、あってはならない差別である」と述べている(阿武野、p90)。
・筆者は、この視点(対象に寄り添うが、かといってそれと一体化しない)が彼のドキュメンタリーの原点ではないかと思っている。
・「さよならテレビ」に戻るが、阿武野氏は「メディアの頂点に君臨してきたテレビ。しかし今はかっての勢いはない。『第4の権力』と呼ばれた時代から、いつしか『マスゴミ』などと非難の対象となり、あたかも、テレビは嫌われ者の一角に引きずり降ろされてしまった」と書いている(阿武野、p23)。
・ちなみに『第4の権力』とは、立法、司法、行政と並ぶ第4の立場で、権力の相互監視と抑制の一端を担うことである。阿武野氏はこの役割が形骸化したことを「さよならテレビ」という言葉で表している。
・かってテレビには、阿武野氏だけでなく、清水潔氏(日本テレビ)のようなサムライがいた。ちなみに清水氏は桶川ストーカー事件の真相を暴いたことで有名で、記者クラブに属していないため、”場”の雰囲気に左右されない作品が作れる。
・ちょっと思うのだが、阿武野氏や清水氏は、日本にとって炭鉱のカナリアかもしれない。カナリアは有毒ガスに弱いため、炭鉱爆発の発見を早める役割を果たす。彼らは、画像を通じて、日本全体の退潮を警告しているのかもしれない。
・話は飛ぶが、広告会社出身の作家、藤原伊織(故人)が、テレビ会社の社員はとてつもない高給をとりながら、実際の仕事は、下請けのプロダクションに任せっぱなしだと書いていた(筆者の記憶なので、正確ではない)。仕事に見合わない待遇を得るということは、当事者を腐敗させる。これが全体システムの老化につながる。他方で実際の仕事を担う現場は疲労し、結局社会全体がうまく働かなくなる。「さよならテレビ」を読みながら、こうしたことを思った。
(参考)
・阿武野勝彦、「さよならテレビ」平凡社、2021
・藤原伊織、「ひまわりの祝祭」、角川文庫、2009
・マーティン・ファクラー、「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」双葉社、2016