スプルーアンス提督のこと
2024.08.10
・第二次世界大戦が終わって80余年が経つ。われわれはその戦争から得た苦い教訓を生かしているだろうか。
・今回は、この戦争でアメリカ海軍を率いたスプルーアンス提督を取り上げる。今甲子園で始まっている高校野球の伝でいえば、スプルーアンスは、全試合に登板して、相手の打線を打ち砕き、甲子園優勝をもたらした投手になぞらえることができる。
・彼を有名にしたのは、ミッドウェー海戦での日本海軍に対する完全勝利だ(日本側は虎の子の空母4隻を沈められてしまった)。それ以降も硫黄島の占領作戦や沖縄侵攻作戦の指揮を執っている。
・しかも彼は「はにかみ屋で無口でであり、新聞に取り上げられることを避け続けた」(参考文献[1]、p2)。実際、アメリカが戦争に勝ってミズリー号の甲板で行われた日本の降伏調印式には列席していない。マッカーサーは彼を招待したのだが、彼はその日も黙々とアメリカ兵の本国送還の任務に就いていたという(参考文献[1]、p565)。
・彼の戦争スタイルは、「日本軍が・・気が付かないでいるところに不意打ちをかけることができたならば、アメリカ軍はただ1回の攻撃で敵の空母を撃沈し、敵は反撃できなくなるだろう」というものだ(参考文献[1]、p201)。
・通常戦争をするときには、相手のリーダーのやり方を調べ尽くすことが重要だ。しかし日本海軍は、スプルーアンスに関してこうした調査は行わなかったようだ。実はスプルーアンスは坂野常善少将と親しい間柄だった(参考文献[1]、p97)。海軍当局が坂野少将にスプルーアンスの性格や人となりを聞けば、良い参考になったろう。しかし坂野少将は大角海相に嫌われて予備役に編入されてしまう(昭和9年、参考文献[3]、p81)。惜しいことをしたものだ。
・ちなみに坂野少将の首を切った大角海相は、もう一つ問題を起こしている。それは山本五十六が開戦に反対した有名な質問にかかわることだ(昭和15年9月、参考文献[3]p376)。山本は、「企画院の物動計画によれば、その8割は、英米勢力圏内の資材でまかなわれることになっておりました。今回三国同盟を結べば、必然的にこれを失うが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか。この点を明確に聞かせていただきたい」と及川海軍大臣に詰め寄った。この議論を打ち切りにしたのが大角軍事参事官で(当時)、「私は(大臣に:筆者注)賛成します」と述べて会議を終わらせた。つまり日本が開戦できるかどうかに関する質問を封印してしまったことになる。
・こうしてみると、大角岑生海軍大臣が第二次世界大戦に及ぼした問題はかなり多そうだ。
・こんな昔話を今取り上げるのも、IT革新とともに、世界の動きが極めて速くなり、日本がその動きについていけず、置いてけぼりになっている感触を、日々プログラムを書く身としては感じざるを得ないからだ。
(参考)
[1]トーマス・ビュエル、「スプルーアンス提督」、小城正訳、2000,学研
[2]半藤一利、「昭和史」、平凡社、2009
[3]阿川弘之、「山本五十六」、新潮社、2020