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わかものたち

わかものたち

  2024.11.09

・ちょっと前にNHKを見ていたら、”懐かしの歌謡曲”的な番組をやっていた。そこで”わかものたち”が歌われていた。今の歌手さんでなかなか歌唱力があったが、ちょっと違和感を覚えた。

 

・この曲は、よく知られているように1960年代末にテレビの連続ドラマとして放送されたもののテーマ曲だ。ブロードサイドフォーの手になる曲は今でも歌い継がれている。

 

・先ほどの違和感の内容だ。この曲は3部からなるが、放送では1番と3番だけが流れていた。放送時間の都合で2番が抜けるのは理解できるが、この歌の構成からするとちょっと問題がある。それは1番で、”君は行くのか、そんなにしてまで”と問いかけ、2番で”あてもないのに”と反語を示し、3番で”君が行く道は希望へと続く”と未来を示唆する構成になっている。つまり正、反、合の形をとっている。その反の部分が抜けてしまったのだ。

 

・筆者の見るところ、2番の”あてもないのに”というところが重要で、ここに当時の若者の閉塞感がよく表れている。これを抜いてしまうと、若者が希望に向かって進むという、単なる明るい歌謡曲になってしまう。

 

・なぜこんなことを言うと、歌謡曲には時代の”心”が刻まれているからだ。作家の五木寛之に、「艶歌」、「海峡物語」、「旅の終わりに」という3部作がある。そこでは、「艶歌とは怨歌だ。演歌を含めて、庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う。転じるところになにかがある。泣くかわりに歌うのだ」というフレーズが何度も繰り返される(参考文献、p75)。

 

・「わかものたち」という歌にもこうした要素がある。安保・全共闘の世代としては、この歌を聞くたびに、当時の時代のうねりといったものを思い出す。わかものたちの鬱屈と跳ね返り、それが結果として高度成長を生んだことは間違いない。今のエコノミストは、やたら生産性の向上などを叫ぶが、マクロの生産性向上は結果であって、事後的(ex.post)な変数だ。操作可能な政策変数ではない。

 

・最初に戻るが、最近聞いた”わかものたち”は、メロディーこそ昔のままだが、そこにはただ空虚な空間があるだけだった。たとえていえば、コクのないインスタント・ラーメンのようなものだ。

 

(参考文献)

・五木寛之、「旅の終わりに」、講談社文庫、1990