「宙わたる教室」をみる
2025.1.04
・NHKドラマ、「宙わたる教室」を同僚がDVDに焼いてきてくれたので、視聴した。この作品は現代日本にとって”希望の詩(うた)”だ。まだご覧になっていない方は、再放送時にみることをお勧めする。
・これは定時制高校生が、科学部を作り、地球惑星学会で研究発表を行い優秀賞を受賞する話だ。こう書くと、山田洋二監督の夜間中学を描いた学校シリーズを思い出すかもしれないが、本作品はそれとは視点が異なる。どう異なるかというと、このドラマでは、主役の若者たちこそ日本の未来を切り開くという、ポジティブなメッセージにあふれているからだ。その辺を詳しく見てみよう。
・現代日本は、”親ガチャ”といわれ、親の出自で、子供の将来が決まるという、いわば新封建主義の気風が社会を覆っている。知足安分が通用する社会だ。しかも厄介なのは、形式上は、この国の社会的身分は固定化していない。建前から言えば、良い学校さえでれば、親の職業が何であろうと、大企業や上級官庁への道は開かれている。
・しかし現実はこれと異なる。まず良い大学に入るためには、よい高校に進む必要がある。公立高校が私立高校を学力や進学率で上回ったのは昔の話だ。今の時代、よい大学に行こうとすれば有名私立高校に行かざるを得ない。そこに入るためには小学校から塾通いをして、受験のエキスパートとなる必要がある。そのためには親の金が必要で、結局のところ今の学歴社会を登っていけるのは、金持ちの子弟だけとなる。かくして金持ちの子供がよい学校に進み、よい会社や官庁に進んでエリート層の仲間入りをすることになる。階級の固定化だ。この連中のことを疑似エリートと呼ぼう。
・「宙わたる教室」が描くシチュエーションはこれとは異なる。定時制高校に進学した”落ちこぼれたち”(失礼!)が、一人の教師を触媒として、エリート校の生徒がもたない豊かな発想で、科学の新しい側面を切り開いていく話だ。
・これはどういうことか。社会学者マックス・ウェーバーが「古代ユダヤ教」で説いたように、新ビジョンが生まれるのは、知的活動の中心地ではなく、その周辺だ。なぜなら、中心にいると何もかもが当たり前に見えて、社会の在り方に対する基本的な疑問がわいてこないからだ。逆に周辺にいると問題点がはっきりと見え、それをどう克服するかが次の時代精神となっていく。
・このドラマの主人公たちは、定時制高校という現代社会の周辺部にいる。だからこそウェーバーのいう、”新鮮な問い”を発揮することができる。この場合に重要なのは、それを掘り出すいわば触媒だ。このドラマではそれが大学教員の資格を離れて、定時制の先生となった藤竹叶となる。
・話は飛ぶが、同じことが明治維新でも起こっている。吉田松陰が幕府を倒してもよいと考えるようになったのは、山県大弐の柳子新論によるところが大きい。その思想を松陰に伝えたのが無名の僧侶で、彼は野山獄にとらえられていた松陰と文通をおこなってこの思想を松陰に伝えたという。つまりこの場合の触媒はこの僧侶だったことになる。これで幕府を倒してよいという回天の思想が松陰に生まれた(参考文献[3])。
・このブログの最初に、「宙わたる教室」が”希望の詩(うた)”と述べた。その意味は、現代の周辺部(定時制高校)に、まだ多様な発想と人に対する思いやりを持つ人たちが生き延びていたことに対する、一種の驚きだ。
・筆者の考えでは、今の日本の疑似エリート(良い家に生まれ、よい学校に行き、社会で高い地位を占める)に、この国の将来を任せることはできない。彼らには、次代を見通す識見も荒波を渡る体力もないからだ。次の時代を担うエリートは明治維新ではないが、中心部からはじかれた人々の中から生まれる。このドラマはそうした可能性を見せてくれた。
(参考)
[1]伊予原新、「宙わたる教室」、文芸春秋、2023
[2]マックス・ウェーバー、「古代ユダヤ教」、内田 芳明訳、岩波文庫、1996
[3]市井三郎、「『明治維新』の哲学」、講談社現代新書、1971