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システムの外に出ること

システムの外に出ること

  2025.03.01

・現代は親ガチャの時代ともいわれる。親が裕福で、社会的地位が高ければ、その子供は、社会の階段を上りやすくなるということだ。たとえば階段の入り口にある有名私立中学にも、高い金を払って塾に行く子供が入学する可能性が高い。昔は公立高校がしっかりしていたから、普通家庭の子供もそれを経由して有名大学に入り、そこから役人や大企業会社員になるルートがあった。しかし今ではこのルートは細くなっている。それは有名大学進学者の出身高校をみればよくわかる。そのほとんどは有名私立だ(筆者は小、中、高とすべて公立である。念のため)。

 

・これを実感したのは、国会討論で野党の代議士が、「就職試験に100回落ちた」と述べた時、与党の議席から笑い声が聞こえたという報道だ(出所は失念した)。つまり与党の代議士は、親の社会的地位が高いから、一流会社の就職も親の名刺一枚で可能になる。したがって就職試験に何回も落ちるという体験は、彼らの理解外だったからだろう。

 

・しかしこのままで行くと日本はどうなるか、こうした毛並みのよい二世・三世が指導層になった場合、彼らは国際的に太刀打ちできるだろうか。たとえば中国の習近平国家主席やロシアのプーチン大統領は、より過酷な体験を経て今の地位がある。そうした人たちと、日本のマシュマロのような若手指導者が太刀打ちできるとはとても思えない。

 

・ではどうすればよいか。一つの可能性は、若者が脱システムして自らの可能性を開くことだ。冒険家の角幡唯介は、この点を以下のように整理している。なおここでシステムとは既存の政治経済体制を意味する。

 

 *冒険とはシステムの外側に飛び出すことである(参考文献[1]、p13)。

 

 *人類史は一部の少しいかれたこの冒険家によって動かされてきた(同、p17)。

 

 *こうしたリスクを・・・忌避する社会は停滞し、取り残され滅亡(同、p17)。

 

・つまり社会の非線形的な発展は(たとえば明治維新を想起されたい)、冒険家が既存システムから脱出することで可能になったというのが、角幡の主張だ。この定義からすれば、司馬遼太郎の描く坂本龍馬は”冒険家”の典型となる(かれは土佐藩の脱藩浪士)。

 

・さて現代に戻るが、日本の”エリート”は、現状に満足し、システム外に飛び出そうとはしない。また教育機関も報道機関も脱システムの恐さ(まともな職につけなくて、よい暮らしができないよ)を唱え続けて、若者たちの勇気をなえさせる。

 

・しかし日本にとって、この穏やかな”平和”(第二次世界大戦の終了から約80年)がいつまでも続くわけではない。転機が生じたとき必要とされるのは、脱システムに果敢に挑戦する若者だ。それがない社会に未来はない。

 

・皆が安穏な”平和”に閉じこもっているとどうなるか。昭和20年8月9日の満州の経験(ソ連の侵攻)が役に立つ。「満州は日ソ中立条約によりかかり、依然として『王道楽土』の逸楽をむさぼっている(参考文献[2]、p48)。在留日本人の保護にあたるべき関東軍も満鉄も彼らを放り出して、先に逃げ出したのだから。

 

   「避難できたものは新京在住約14万人のうちの約3万8千人。内訳は軍関係家族2万3百十余人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6千7百人。ほとんどないに等しい残余が一般市民である」(参考文献[2]、p232)。

 

(参考文献)

[1]角幡唯介、「新・冒険論」、集英社インターナショナル、2018

[2]半藤一利、「ソ連が満州に侵攻した夏」、文芸春秋、2002